被災地にて②

早稲田大学社会科学部の上沼正明教授のもとで「政策科学」を修めた仲間たちと「沼門会」というOGOB会を立ち上げ、定期的に活動している。今回、「沼門会」の年代が異なるメンバーと現役の学生とで宮城県で被災した先輩方を訪問した。

↓上沼正明ゼミナールのHP↓
http://www.f.waseda.jp/kaminuma/index-j.html

私はゼミの6期生。2期生の先輩である菅原さんは、仙台でチャンコ料理店を経営し、地元商店街振興組合の青年部長を務められている。親父さんは元力士で東北大学の相撲部の顧問を務められていた。
以下、菅原さんに御許可いただき、被災の経過を記させていただく。

↓相撲料理「宮登」
http://www.sunmall-ichibancho.com/miyanobori/

かつての早稲田大学は地方出身の学生が多く、OGOB会メンバーも各地に散らばっている。そこでこの何年か、あちこちに支部を立ち上げると称し、盃を酌交わしに出かけてきた。菅原さんには仙台支部の大将として助けていただいた。

親父さんは菅原さんに店を譲った後、亘理の地に居を構え、畑を耕し、果樹を栽培し、地元の人に信頼されながら、活き活きとされていた。3月11日、親父さんは海岸から2km近く離れたこの家にいて、津波に巻き込まれた。よもやそこまで津波が押し寄せるとは誰も思わなかった。菅原さんは、余震おさまらぬ中、避難所を駆け回った。弟さんは、腰まで水に浸かりながら、立ち入り禁止の亘理の家に向かい、庭の辺りで仰向けになって亡くなられていた親父さんを発見した。生存者優先のため、親父さんのご遺体は、なかなか動かすことができなかった。とうとう仙台のご自宅に連れて帰ることができず、隣接する山形の安置所から荼毘にふされた。

こうした大変な状況の中で、菅原さんは地元消防団員として行方不明者の捜索活動を行い、チャンコ料理屋の営業再開と従業員の給与等資金繰りに奔走していた。

菅原さんの1学年後輩で3期生の徳田さんは畑が全滅した。有名ゼネコンの営業職として10年勤めた後に、脱サラして農業に転身した方である。元々農家の倅ではない徳田さんは、2年間の農業研修の間、夜中に市場でアルバイトをして稼いできた。農協には頼らず、市場で知り合った業者との伝手で、ようやく買い手を見つけ、生計を立てることができるようになった。

畑があったのは甚大な被害を受けた仙台空港に近い北釜という地域だった。この集落では相当数の方々が亡くなり、農業でお世話になった恩人や仲間でも亡くなった方が多かったとのことである。本当はこの地に家を建てようと思っていたが、住宅地がなく、やむを得ず海岸線から離れたところに家を建て、辛うじて難を逃れた。徳田さんは一度は農業を諦めようと思った。しかしこの度復活し、新たな土地を借り、一から畑を耕し始めている。

テレビで切り取られた映像からは「被災地」は見えてこない。現地に行き、臭いある現場を360度見渡し、人々と話し、ほんの少しのことを知ることができる。菅原さんは、今回の訪問にあたって、いわゆる「見学ツアーとなることには違和感がある」と書かれた。「なるたけ汗をかいてもらい、考えてもらいたい」。そこで猫の手ぐらいであるが、徳田さんの畑でアスパラガスとブロッコリーを植え、菅原さんの親父さんの家の片づけをおこなった。次の日に体で痛くないところがなかった。しかし写真のとおり、いい顔が撮れた。生きている限り何度でもやり直せる。


こんなに美味かったスイカは久し振りだった。